古厩の歴史

作成者:伊藤草彦・伊藤彦太郎
作成日:2020年3月

「古厩の歴史」と言えば、何と言っても「鈴鹿駅家(すずかうまや)」跡。

古厩の入り口、鈴鹿駅家跡の碑

駅家(うまや)とは、律令制の時代(主として奈良時代から平安時代)に五畿七道の駅路沿いに整備された施設で、 当時の主要な交通手段であった駅馬やその乗具、厩舎はもとより、従事する駅子が業務を行う部屋、駅馬を使う駅使が宿泊・休憩する施設などが設置されていました。
その文字が示すとおり、正に現在の鉄道の「駅」のように、「交通の拠点となる施設」という訳です。
鈴鹿駅家は、当時の軍事・交通の重要な施設であった律令三関の一つである「鈴鹿関」の鈴鹿川をはさんだ南側に近接し、特に重要な駅家であったことが推測されています。

鈴鹿関について

古厩を語る上で欠かせないのが、「鈴鹿関」です。「関」というと、よく時代劇に出てくるような関所を連想しがちですが、実は違います。亀山市の歴史博物館のホームページに分かりやすく詳しく載っているので(http://kameyamarekihaku.jp/suzukanoseki/shousai.html アニメーションは一見の価値あり)、是非そちらも参照頂きたいですが、当然、通行に一定の制限を与えるものでありますが、軍事用の要塞のようなイメージです。

鈴鹿関のイメージ(歴史博物館HPより)
観音山の中腹から南を見た想定

鈴鹿関と古厩

古厩の名前の由来は、鈴鹿駅家があったことと言われていますが、逆に言えば、鈴鹿関と鈴鹿川を挟んで南側に隣接している地理的条件や、古厩という地名から、古厩の地に鈴鹿駅家があったのは間違いないだろう、と考えられていた、ということでしょう。

当時の様子(関町史より)

また、鈴鹿関の遺構については、平成17年の西城壁跡の発見までは、この古厩で発掘された当時の「瓦」のみでした。このことからも、鈴鹿関の検証を行う上でも、古厩の存在が欠かすことが出来なかったと言えます。
時代が進み鈴鹿関が廃止されると、鈴鹿駅家の機能は、鈴鹿川の北側の現在「宿屋」と言われる辺りへ移って「鈴鹿関駅家」と言われるようになり、更に時代が進むと、「関駅家」として現在の関の町並に近い場所に移っていったことが推測されています。
正しく、鈴鹿駅家があった場所が「古い駅家」の意味で、古厩と呼ばれるようになっていったということでしょう。
ちなみに、「鈴鹿駅(家)」から東への道が「東海道」とされています。東海道も、時代と共に変遷しているようです。

古厩の歴史スポット

1、古厩遺跡

古厩地区を覆う形で広がっている遺跡群です。
これまで古厩で大がかりな発掘調査が行われた事はありませんが、古厩の名前と、律令時代の地理的条件などから、古厩の地が鈴鹿駅家の跡であることが間違いないとされています。また同時に律令制における鈴鹿郡の郡役所であった「郡衛」があった場所としても有力視されています。正に、古厩地区全体が歴史スポットと言えるでしょう。

2、式内大井神社遺跡

鈴鹿駅家の跡に設置されたであろう、式内大井神社遺跡。既に関神社に合祀された現在では神社の跡を示す碑とご神体と言われる都追美井(つつみい)が残されています。この井戸は、元々は鈴鹿駅家の井戸であったとされています。

式内大井神社遺跡の碑
都追美井(奥の祠の下に井戸がある)

3、金王道

平治の乱で敗走していた源義朝が愛知県の内海で臣下に裏切られ討たれた際、忠臣「渋谷金王丸」が、義朝の死を都に居る側室の常盤御前に伝えるために駆け抜けたとされる道です。金王道に関しては、中心部分がある昼生地区の方々が頑張っておられ、看板も設置して頂きました。
案内看板や古厩側からの入口が、式内大井神社遺跡より津方面に数十メートル下った辺りにあります。

案内看板
古厩側からの入口